いつの日も泉は湧いている(文庫版)
2016年9月6日 小学館文庫 670円+税 372頁
  
[Data]
# 2012年9月3日〜2013年4月18日まで 「日本経済新聞電子版」に65回連載
# 2013年11月6日、日本経済新聞出版社より刊行
# 2016年 9月6日、小学館より文庫刊行
# 1969年〜70年の高校紛争(闘争)をモチーフにした長編小説。県立川越高校を舞台に
  していますが、あくまでもフィクションです
# 解 説 : 川本三郎
# 装 丁 : 鈴木成一デザイン室
# フォト : Getty Images
# 編集者 : 稲垣伸寿

[冒頭立ち読み]
プロローグと第1章の冒頭 が読めます





いつの日も泉は湧いている(単行本)
2013年11月6日 日本経済新聞出版社 1600円+税 317頁
  
[Data]
# 2012年9月3日〜2013年4月18日まで 「日本経済新聞電子版」に65回連載
# 2013年11月6日、日本経済新聞出版社より刊行
# 1969年〜70年の高校紛争(闘争)をモチーフにした長編小説。県立川越高校を舞台に
  していますが、あくまでもフィクションです
# 帯の推薦文は、川本三郎氏にお願いしました
# 装 丁 : 鈴木成一デザイン室
 (鈴木成一さんには「二人静」「ありふれた魔法」の装丁もお願いしました)
# フォト : Getty Images
# 編集者 : 苅山泰幸

▼ カバーの写真は、メキシコ・ユカタン半島のセノーテ (聖なる泉) より

▼ 2011年11月7日「日本経済新聞」朝刊 全5段


[題名について]
◎題名の 『いつの日も泉は湧いている』 は、日本画家の畏友・瓜南直子さんが、「美術作家による震災遺児支援 『3.11きずな展』」 に出品した絵画作品 『いづみ』 に添えた言葉 「いつの日も、いずみは湧いている。涸れることなく湧きつづける」 から戴きました。
◎また、瓜南直子さんは、「日経新聞電子版」で私がこの長編小説の連載を開始する3ヶ月前、2012年6月4日に急逝されたので、「いつの日も、いずみは湧いている」という言葉は 「瓜南直子のブログ」 に遺された最期のメッセージともなりました。合掌
▼ 「3.11きずな展」出品作品 『いづみ』 (2012年1月 瓜南直子作 P4)


[日経新聞電子版連載]
◎連載時の紙面は こちらに保存 されています


◎紙の新聞と違って、電子版はビューアーで読む形式なので、原稿量に制限がありません。連載1回分は原稿用紙換算7枚程度と依頼されましたが、連載終了時期に近づくにつれて物語が大きく膨らみ、連載1回で30枚ほど書いたこともありました


[書評・著者インタビュー・エッセイ・講演会]
# リンク先をクリックすればすべて読めます
■2012年8月27日
 『日経新聞電子版』に、エッセイ 「高校紛争から40年、その意味をいま問い直す」 掲載
■2013年11月16日
 『東京新聞』夕刊に、著者インタビュー 「時代とらえて物語に」 掲載 (紙面はこちら
■2013年11月26日
 『毎日新聞』夕刊に、田中和生氏による 「11月の文芸時評」 掲載
■2013年12月15日
 講演会ドットコム主催 『いつの日も泉は湧いている』読書会 開催 (関連エッセイ
■2013年12月17日
 『週刊朝日』夕刊に、著者インタビュー 「1年早く生まれていたら」 掲載
■2013年12月21日(共同通信配信)
 『福島民報』 『神戸新聞』 『佐賀新聞』他に 「書評(山崎行太郎氏)」 掲載
■2013年12月25日 
 『マガジン9』 鈴木耕氏による 「時々お散歩日記」 で紹介
■2014年1月2日号
 『週刊新潮』 年末年始お薦め企画 「中江有里が選んだベスト5」 で紹介
■2014年1月8日
 『毎日新聞』 朝刊 「ブックウォッチング:新刊」 で紹介 (紙面はこちら
■2014年1月12日(時事通信配信)
 『京都新聞』 『上毛新聞』 『長野日報』『山口新聞』他に 著者インタビュー 掲載
■2014年3月9日
 『北海道新聞』 朝刊 「本の森・新刊と文庫」 で紹介 
▼日経新聞       ▼東京新聞              ▼毎日新聞
   
▼週刊朝日      ▼共同通信配信          ▼時事通信配信
   

[読者の書評]
ブクログ     ◎読書メーター   ◎新・はんきちのつぶやき  ◎野雪の平熱日記
Weblog 風信子   ◎風音土香   ◎とりとめもなく綴る     ◎暮らしのフォラム
小原一馬(宇都宮大学准教授)    ◎ペンギンブックカフェ    ◎Y&S
道草をしていいこと探そ。        ◎ひこーき雲に乗せて    ◎Hitomi爺
たまもひさん   ◎itohtrickさん   ◎tomomiさん         ◎M.Itoさん
こたつねこさん  ◎みるくさん     ◎千坂恭二(日独思想・哲学)@ 千坂A
河田聡(大阪大学教授)  ◎3月11日を想いつづける   ◎阿智村有機農業日記
生誕半世紀からの存在   ◎岡部えつ(作家)@ A B  ◎荒川佳洋(富島健夫研究)
牧野輝也(編集者)@ A  ◎原田英男   ◎枇杷@ A   ◎フータ   ◎ふぅ
松木創(テレビディレクター)

[トピックス]
◎2014年3月2日『いつの日も泉は湧いている』が第4回Twitter文学賞・国内部門9位に選出されました。尚、1位は松田青子著『スタッキング可能』(河出書房新社)です
第4回Twitter文学賞 2013年、私が選んだこの1作(国内編) ※全投票結果まとめ
第4回Twitter文学賞 結果発表会アーカイブ ※0:13〜国内部門発表が始まります
★結果発表会の模様 (出席:豊崎由美、大森望、佐々木敦、杉江松恋、石井千湖各氏)


[小説の背景になった1969年]
◎写真は1969年6月28日、新宿西口地下広場のフォークゲリラ。この日、反戦フォーク集会参加者の多くがデモに移行したが、機動隊によりデモ隊に催涙ガス弾が撃ち込まれるなど、新宿西口一帯は混乱を極め、通行人2人が巻き添えをくってケガをし、警官16人が重軽傷を負い、学生ら64人が逮捕された。


【上記の1969年6月28日の新宿を描いた箇所を、小説本文より以下に一部抜粋】
「ガス銃だ! 機動隊がガス銃を撃ったぞ!」
 男の叫び声が聞こえ、次の瞬間、催涙ガスの匂いが鼻孔を突いた。ガス銃の発射される鈍い音があちこちで聞こえる。たちまち目が痛くなり、涙があふれ出てきた。
 紺色の制服を着た機動隊が一列に並んでガス銃を打っている。信じられないことだが、それはいままさに現実に起きていることだった。ガス弾は群衆の頭上を飛んでいき、逃げ惑う人々の足元でパッパッと光って炸裂する。
「機動隊、帰れ、帰れ!」と筋野は声を嗄らしているが、ぼくは恐怖のあまり声を上げることさえできない。ハンカチを目に当てて、ただ逃げ惑うばかりだった。幼児を抱きかかえた若い母親が催涙ガスで目を真っ赤にして立ちすくんでいる姿が一瞬目に入り、腹の底から怒りが込み上げてきたが、やはり恐怖の方が勝ってしまい、彼女に声をかけることもできずにその場を通りすぎてしまった。
「地下に戻ろう!」と筋野が大声で言った。
 その選択が正しいのか分からなかったが、ぼくと大河原は互いの腕をがっちりとからみ合わせたまま、筋野の姿を見失わないように、人波をかきわけて彼のあとに続いた。
 地下に向かう人たちの一群があり、その人波に押されるようにして地下広場に戻った。だが、地下にも大量の催涙ガス弾が撃ち込まれ、広場は白煙に包まれていた。そんな中でも学生たちは肩を組んで、「ウィ・シャル・オーバーカム」を歌い続けている。機動隊はすでに地下から引き揚げたあとのようだった。ぼくと大河原はしばらくその場に放心状態で立ち尽くしていた。
 学生たちはあちこちで集団を作り、「機動隊の横暴を許さないぞー」と抗議の声を上げている。
「東口に行くにはどうしたらいいんだ」
「このまま地下通路を進んだほうがいいな」
 大河原とぼくがそんな会話を交わしていると、「絶対に許せん!」と筋野が苛立った声を上げた。ビクッとしてぼくは筋野の顔を見た。
「これが国家権力による暴力なんだな」と筋野が自分に言い聞かせるように言った。
 そのとき広場の奥の方から大きな歓声が上がった。遠くてよく見えないが、数人の男たちが交番を取り囲んでいる。
「よし」と筋野はつぶやくと、ふいに走りだした。
「筋野!」とぼくは叫んだ。
「筋野、戻ってこい!」と大河原も叫んだ。
 だが、筋野は一度も振り向かず、白煙の立ち込める中を交番に向かって走り続けた。(第2章・112〜114ページより)

[手書きPOP]
◎地元のブックファースト川越店にて (右は、盛田自身の手書きPOPです)


[Ust配信動画]
◎2013年12月17日にUst配信された鼎談番組 「コペルニクスの探求 第16回:小笹芳央×平川克美×盛田隆二(ゲスト)」では、『いつの日も泉は湧いている』を題材にして、小説家はなぜ書くのか、どこまでが事実でどこから想像力が動き始めるのかなど、たっぷり90分間語りつくしました。写真左が平川克美氏


◎鼎談番組 「コペルニクスの探求」 の冒頭15分をこちらで視聴できます


◎上記の鼎談は 「ラジオの街で逢いましょう で45分間の音声でもお届けしています
◎尚、この音源の高品質90分完全版は 「ラジオデイズ にて発売中です


再録 「いつの日も泉は湧いている」(冒頭)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

      プロローグ

 いつものように金曜日の官邸前デモに参加し、満員電車に揺られて帰宅した二〇一二年七月二十七日の夜、ぼくはシャワーを浴びて汗を洗い流すと、さっそくパソコンに向かった。ツイッターでデモの動員の様子やスピーチの動画をチェックしようと思ったのだ。だが、タイムラインに流れてきた一つのツイートに目が留まり、そちらに関心が移ってしまった。
〈来週の七月三十日は、一九一二年の大正改元から満百年、つまり「大正百年」の記念日。皆さん、ご存じですか〉
 そうか、ちょうど百年なのか。ぼくは返信キーを押して、すぐにツイッターに書き込んだ。
〈「明治百年」と比べて盛り上がっていませんね〉
〈ああ、守田さん、お久しぶり。明治時代はやはり近代国家の始まりという大きな位置づけがありましたからね〉
 相手はツイッターでよくやりとりをする男性だが、本名も職業も知らない。読んだ本の感想などを平日の昼間も頻繁につぶやいているので、すでに定年退職した人かもしれない。
 思い返してみれば、国家行事「明治百年祭」が挙行された一九六八年、ぼくは中学三年生だった。NHKの大河ドラマ「竜馬がゆく」を両親が熱心に見ていたことや、この大きな節目の年にきみたちに日本の歴史を教える機会を持てた幸せを私はいま噛みしめている、と力説した老教師のことは憶えているが、当時のぼくは連載が始まったばかりの「あしたのジョー」や、ラジオの深夜放送から流れてくる関西フォークに夢中で、明治維新から百年と言われてもまったくピンとこなかった。
 むしろその年の秋、大学生を中心とするデモ隊が新宿駅を占拠して電車のシートを外して火を放ち、機動隊と衝突して何百人も逮捕されたと報じられたときには、固唾を呑んでテレビのニュース映像を見守りながら、ぼくはいま歴史に立ち会っている、と震えるほど興奮し、いつかあの熱狂の渦に身を置くだろう自分の姿をひそかに想像して恐怖さえ覚えたものだが、その二日後に日本武道館で明治百年記念式典が粛々と催されたことはまったく知らなかったし、新宿駅を占拠した大学生たちが、その前年に祝日化された建国記念の日と明治百年キャンペーンを結びつけて激しく糾弾していたことなど、さらに想像も及ばなかった。ぼくは東京近郊のひなびた城下町でのんびり育った丸刈り頭のサッカー少年にすぎなかった。
〈次の節目は、昭和百年の二〇二六年ですね〉 
 そう書き込むと、男性はすぐに返してきた。
〈福島第一の廃炉は二〇五〇年完了が目標。工程表によれば、昭和百年の年になっても、原子炉内の燃料回収さえ終えていません。いったいどこに向かっているのでしょうか、この国は。その頃もう私は生きていないでしょうが 
 二〇二六年に自分はすでにこの世にいない、と男性は言っている。それほど高齢なのか、あるいは重い病に罹っているのか、それを確認するわけにもいかない。〈やれやれですね〉とぼくは短く返信し、検索窓に「官邸前デモ」と打ち込んでエンターキーを押した。
 何百何千という人たちがツイッターでデモの様子を報告している。これまでは「再稼働反対」のシングルイシューだったが、スマートフォンで撮影された写真を見ると「原子力規制委員会の人事を撤回せよ」のプラカードを掲げる人も増えている。子ども連れの若い母親の姿も目立つが、やはりデモの参加者はかつて安保闘争や反戦運動になんらかの形で関わった五十代以上の年齢層が圧倒的に多い。
 そういえば、官邸前デモで高校生らしき若者の集団を見かけたことは一度もないな。ユーチューブにアップされた動画を見ながらそう思った瞬間、鼻の奥に熱いものがつんと込み上げ、たちまち涙腺が弛んだ。四十年以上前に八ミリカメラで撮影された、あの懐かしいモノクロのサイレント映画が急によみがえってきたのだ。
 大切な人がこの世から忽然と姿を消してしまった。あの日からまだ二ヶ月も経っていない。そのとてつもない喪失感が胸の空洞の中を滝のように流れ落ちていく……。こうした悲しみの発作は昼夜を置かずにくりかえし襲ってくるが、ぼくはそれに耐える術をやっと身につけたようだった。こうして文章に書き記すことはもっとも有効な手立ての一つなのだろう。
 いや、それにしても、セシウム137の半減期が三十年、廃炉完了まで四十年、原発の運転は最長六十年。ツイッター上のやりとりにしても、日本人の日常会話にこんなに長いスパンの話題が上ることなどいままでなかっただろう。高レベル放射性廃棄物が無害になる期間がヨーロッパの基準では十万年、アメリカの基準では百万年にもなると計算されている、と幼い子を持つ母親たちが熱心に語り合う。そんな時代が来るなんて一年半前まで誰も想像しなかった。
 三十分ほどかけて一通りチェックをすると、ぼくはネットから離れて、一つの文書を呼び出した。
 
 いつの日も泉は湧いている
 
 少し前屈みになり、まだ一行しか書いていないパソコンの画面をじっと見つめる。
 六十年近く生き長らえると、五十年という時間の長さを体感できる。そればかりか、生きてきた時間を折り紙のように逆に折り返すことで、自分が生まれる五十年前のことさえさほど遠い昔ではないように思われる。つまり百年という時間の長さも十分に想像の範囲内に収まってしまい、人の一生とはこんなにも短く、うたかたの夢のようなものだったのか、と思い知らされることになる。若い頃にはとても考えられなかったことだ。
 ぎゅっと目を閉じ、さあ百年経ったぞと想像し、静かに目を開ける。するとどうだ。いま地上に生きている人はもうほとんど誰も生きていない……。熱帯夜を扇風機の風でしのぎながら、そんな自我に目覚めたばかりの少年のような夢想にふけっているのも、じつはこれから四十年以上前のことを書こうとしているからだ。
 一九六九年、つまり明治百年の翌年、ぼくは埼玉の県立高校に入学した。全共闘が安田講堂を占拠して東大の入試が中止され、大学闘争がピークに達したこの年、高校生もまた学校や社会に異議申し立ての声を上げた。
 もちろんそこには学生運動の影響もあったが、けっして模倣したわけではない。高校生には高校生なりのやむにやまれぬ切実な思いがあった。デモへの参加を呼びかけるツイッターも携帯電話もなかったあの時代に、全国の高校生たちが申し合わせたように各地で同時多発的に集会を開き、高校全共闘を結成し、ストライキを打ち、校長に要求を突きつけた。いまの高校生には想像もできないだろうが、そんな時代があったのだ。
 いまでも事あるごとにあの時代を思い出し、自分の意気地のなさに居たたまれない気分になる。だからそれを小説に書くことはけっしてないだろう。ほんの少し前までそう思っていた。だが、いまはその時代のことを書かずにいられない気持ちだ。いや、そうではない。どうしてあなたは書かないの? あなたには書き残しておく義務があるのよ、と耳元で絶えずささやく声が聞こえる。
 これから書くのはそんなに威勢のいい話ではないし、甘美な回顧録でもない。親元から離れて暮らす大学生と違って、高校生はまず親との衝突が避けられなかったし、毎日教室で顔を合わせる教師とも真正面からぶつからなければならなかった。しかも大学生と違って、高校生は政治活動が禁止されている。だから生徒によって当然温度差はあるが、自分たちの力で世の中を変えることができると信じて、停学や退学も覚悟の上で最後まで闘ったのだ。
 いま振り返れば、あの時代は確かに遠い日の花火のようにも感じられる。だが、臆病で世間知らずの新入生だったぼくと違って、絶えず闘争の先頭に立ち続けて自主的に退学していった者や、不転向の意志を貫いたために自らの生き方さえ否定せざるを得なかった者にとっては、あの二年にも満たない日々がその後の彼らの人生を決定づけ、さらに四十数年後の現在まで影響を与え続けている。
 この小説を書くにあたって多少なりともプロットを組み立てようと試みた。だが、これまでのぼくの六十年近い人生がまったく予定通りにいかなかったように、小説の設計図など作ってもどうせなんの役にも立たない。話の筋立てを考え始めて、すぐにそのことに気づいた。しかたない。最後までたどり着けるか不安だが、ここは記憶だけを頼りに手探りで書き進めていくしかないのだろう。
 一九六九年にさかのぼる前に、この小説を書くきっかけとなった一人の女性のことから語り始めたい。
 冨士真生子と初めて会話を交わしたのは、当時の日記によれば一九六九年の六月のことだ。彼女は市内の女子高校に通う一学年上の生徒で、内気そうに見えるその顔立ちからは想像もできないほど決然とした活動家だった。たった一人で反戦映画の自主上映会を企画し、大学生からセクトの集会に誘われれば臆せずに参加し、集会ではマイクを握って文部省の指導手引書の破棄を訴えた。
 十五歳のぼくはそんな彼女に淡い恋心を抱いたが、思い余って自分の気持ちを打ち明けたりしようものなら、あなたもやっぱりそうなの? 私のことを取るに足らないモノのように見る。単なる性の対象としか見ていないのね? とがっかりされそうで、それが怖くて、ただ彼女の口から発せられるコミンテルン、ソンミ村虐殺、新潟水俣病第一次訴訟といった単語を聞き洩らさないように、必死に耳を傾けていたものだ。だからその後四十年以上にわたって、二人が折に触れてお互いの消息を連絡し合う関係になるとは、その頃は考えてもみなかった