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■『金曜日にきみは行かない』立ち読みコーナー■ 2006 Mar 25 (Sat) |
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水曜日
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一晩かけて書き上げたインタビュー原稿を編集部にファックスす
ると、きみは冷やした小さいグラスにウォッカを注ぎ、窓辺のベッ
ドに腰を下ろす。そしてブラインドのすきまから外の景色を眺めな
がら冷凍してとろりとなったウォッカをぐいと飲み干す。数秒後、
喉の奥がカッと熱くなり、アルコールが心地よく内臓にしみわたる。
表参道の二本裏手にある三階建てのアパート。枯れかけたツタの
葉が無数の亀裂の走る外壁を覆い隠している。きみの部屋は一階
のいちばん端にある。住人はとうに還暦をすぎた老夫婦ばかりだ。
アパートの向かいには煉瓦作りの洒落たビルが建っている。一階
にはアフリカの民芸品を扱う店と、カウンターだけのジャズバーが
入っている。きみは早めに仕事を終わらせ、バーで一杯やるつもり
だった。だが、原稿を書き上げたときにはすでに準備中の札が掛か
っていた。
バーのドアが開き、顔馴染みのバーテンダーが出てくる。ビルの
裏口にビールのケースを積み上げている。きみがブラインドのすき
まから見ていることを、もちろん彼は知らない。バーテンダーが店
に引っこむと、脱色した髪を風になびかせて新聞配達がやってく
る。まもなくきみの新聞受けにも冷たく湿った朝刊が投げこまれる
だろう。きみはグラスに二杯目のウォッカを注ぐ。外は霧のような
雨が降っている。
それにしても、たった二四〇〇字の原稿にこれほど手こずるとは
思っていなかった。
自閉症のロックシンガー、躁鬱病のマネージャー、二重人格のレ
コード会社、おまけに健忘症の編集者。まともな人間など、ひとり
もいない。そうしたことにきみは慣れっこになっているはずだった。
だが、今回はあまりにもひどすぎた。音楽雑誌の原稿料は呆れる
ほど安い。インタビュー前後の打合せ時間を含めれば時給千円に
もならない。
「まずは四日後に迫ったコンサートについてだけど」
きみはにっこり頬笑み、カセットレコーダーのスイッチを押した。
二時間も待たされた上、週刊誌の撮影が入ったため、三十分しか
ないという。当初の約束は一時間三十分だった。だが、怒っても
始まらない。三十分などあっというま間にすぎてしまう。
「やっぱりニューアルバムの内容が中心になりそう?」
白石ありすは黙ってカセットレコーダーを見ている。けっして口
を開こうとしないし、第一、きみの言葉など聞いてやしない。
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