■『ありふれた魔法』立ち読みコーナー■  2006 Sep 18 (Mon)  


 焼きハマグリの店を出ると、まだ十時前だったので、最寄りの

地下鉄駅ではなく、神宮外苑を抜けて信濃町駅まで歩くことに

した。

「夜の散歩って、ほんとに気持ちいいですね」

 茜がとても楽しそうだったので、智之はそっと手を握ったが、

「汗かいちゃいますから」と彼女は言って手を離し、しばらく

してから「失礼します」と会釈をして、腕をからませてきた。

 イチョウ並木が左右から枝葉を伸ばし、トンネルのように続い

ている。智之は茜と腕を組んだまま、水銀灯の光と樹木の影が

作る縞模様のなかをゆっくりと歩いた。

「以前、娘の相談をしたとき、中学生だったら放課後に待ち合わ

せて帰るだけでも、つきあっていることになるって言ってたよね」

「はい、別のクラスの男子だったら特に」

 歩道には木製のベンチが一定の間隔で設置され、ほぼひとつ

おきにカップルが寄り添って座っていた。手を取りあってひそひ

そ話をしたり、押し黙ったままじっと抱きあったりしている。

「ぼくらも」と智之はわざと声を低めた。「つきあっていることに

なるのかな」

「なりますね」と茜は即座に答えた。「おたがいに中学生だったら」

「でも、中学生はすし屋でデートしたりしない」

「ですね」

 茜は智之の肩にもたれかかり、クスッと笑ってすぐに離れた。

 相手のほうから積極的に腕を組んできたのだから、OKのサ

インにちがいない。独身のころの自分ならそんな勘違いをして

舞い上がっているだろう、と智之は思った。だが、この年齢に

なると、女性が腕を組みたくなるときの気持ちも少しは分かる。

アルコールの影響で心身が解放されていればなおさらだが、

そうでなくても他人の温もりが恋しくなることだってある。そんな

とき人は相手の体温を感じられるスキンシップを求めるものだ。

 イチョウ並木を抜け、テニスコートの脇を通りすぎた。腕を

組んだままふたりともずっと口をつぐんでいたが、沈黙はけっ

して苦痛ではなかった。いや、むしろあえて言葉をかわさない

ことで、おたがいの心の内を確かめあっているような気がした。

 外苑の出口が見えてきたところで、智之はふと足を止めた。

「どうされました?」と茜が訊いた。

 智之は答えずに、適度な酔いとスキンシップがもたらす幸福

感に身をゆだね、茜の唇をじっと見つめた。涼しげできりっと

した目元ではなく、光沢のあるルージュの引かれた唇をうっと

りと眺めた。どれぐらいそうしていただろう。茜は根負けしたよ

うにまぶたを閉じ、わずかに顎を上げた。目のふちがかすかに

赤く染まっている。

 中学生なら軽くキスをするだけで、天にも昇る気持ちになれ

るだろう。だが、四十男の欲望は露骨で無遠慮で、節度という

ものがない。ここで唇を重ねたら、たちまち上司と部下の関係を

踏み外し、妻を裏切ることになる。そうまでして茜を抱きたいの

か? いや、戯れに手をつないで歩くだけでいまは十分に満ち

足りている。プラトニックな関係だからこそ、ふたりだけの時間

がこんなに楽しく、そして切ないのだ。踏み外してはいけない。

職場の上司として、妻子持ちの男として、ここは自制しなければ

いけない。

 智之は自分にそう言い聞かせ、茜の両肩にそっと手を置いた。

目の前に茜のショートカットの髪がある。毛先だけ軽くウェイブ

のかかったその髪に軽く鼻を当て、「焼きハマ」とささやいて、

両肩から手を離した。

 茜は就寝中に無理やり起こされた子どものように、「えっ?」

と目をしばたたいた。

「いま、なんておっしゃいました?」

「うん、きみの髪から、焼きハマグリのいい匂いがした」


(19章 176頁15行目〜178頁19行まで)