エッセイ再録 「一冊の長編小説のために」  2007 Jan 25 (Thr)  

■ここ数年のうちに発表したエッセイや書評のうちのいくつかを
 この「メモ」欄に再録することにしました。
 再録は不定期で、なおかつ発表順とは限りません。

■今回の再録は 「週刊読書人」2005年4月1日号に寄稿した
 「一冊の長編小説のために」。
 《辞書・事典特集》のテーマに基づき執筆したエッセイです。



  「一冊の長編小説のために」

                               盛田隆二


 小説を書く上で、国語辞典と類語辞典は手放せない。とりわけ

 類語辞典にはお世話になっているが、ぼくの使用方法は、一般

 の方とはちょっと違うと思う。

 たとえば 『類語新辞典』 (角川書店) の【疲労】の項を引くと、

 草臥れる、気疲れ、旅疲れ、心労、気骨が折れる、倦怠、へば

 る、へたばる、へこたれる、ばてる、伸びる、茹だる、困憊、足が

 棒になる、などの類語がずらりと並んでいる。

 それらの中から小説の該当箇所に一番フィットする言葉を選ぶ

 のかといえば、そういうわけではなく、それらを眺めながら、辞書

 に載っていない比喩を考えるのである。


 なにもない虚空から一輪の薔薇をつかみとるように、瞬時にして

 的確な比喩を思い浮かべられるのは、ほんの一握りの天才作家

 だけだ。ぼくのような作家は 「心労、気骨が折れる、倦怠、へば

 る、へたばる……」などと口の中でブツブツとつぶやき、ウンウ

 ン唸っているうちに、 「彼は疲れきって、燻製のような顔をして

 いた」などという言い回しをふと思いつき、お、やりっ! と胸の

 内で快哉を叫ぶのである。


 国語辞典や類語辞典は、まあ、そんな使い方がメインだが、一冊

 の長編小説を書くために一冊の事典を徹底的に使い込んだ経験

 が一度だけある。

 それは一九九〇年のデビュー作 『ストリート・チルドレン』 (講

 談社/新風舎文庫)だ。ぼくはこの長編小説を書くにあたって、

 一九八七年に刊行された『江戸東京学事典』(三省堂)をほとん

 ど読破した。いや、そう書くと誤解が生じるだろう。千二百ページ

 以上の大判の事典を端から読んでいったわけではない。


 一六九九年 (元禄十二年)、組頭の女房を孕ませた十九歳の青

 年が、生まれ育った下諏訪の村から、開設されたばかりの内藤新

 宿に出奔する。その青年を一代目として、彼から流れ出た血の因

 果は、男色者、遊民、歌舞伎子、詐欺師、家出娘、廃疾者など、

 ことごとく路上の民で彩られながらも、三百年後の一九九八年、

 出稼ぎフィリピーナとのあいだに子をなす十三代目の青年まで、

 危うく一筋に流れる。


 そのような構想のもとで、おずおずと書きはじめたのだが、たと

 えば江戸中期の登場人物がおでんの屋台を始める場面にさしか

 かると、事典を開いて当時のおでんの具の内容を調べ(当時は

 コンニャクや竹輪麩より、サトイモや焼き豆腐のほうが主流だ

 った)、天然痘にかかった女性は病とどのように闘ったのかを調

 べ、また、江戸末期の少年少女が真夜中に熊野神社の池でこっ

 そり泳ぐ場面を書くときは、池の広さや深さを調べ、そうして江戸

 から明治、大正、昭和と、百人近くにおよぶ登場人物の生死を描

 き続けながら、結果的にほとんど読破してしまったのだった。


 庶民の生活の細部にはこだわったが、歴史小説を書くつもりは

 なかった。だから事典に収録された千百項目のうち、具体的に参

 照したのは二十項目ぐらいだろう。だが、江戸から文明開化、関

 東大震災、戦後の闇市を経て、一九六〇年代のアングラムーブ

 メント、ポスト・モダンへと続く、時代と世相のパースぺクティブが

 一冊の事典を読破することでぼくの中で物語として立ち上がり、

 それが書き続ける原動力になったのである。この事典にはいくら

 感謝しても足りないほどだ。


――――――――――「週刊読書人」(2005年4月1日号)掲載
              http://www.dokushojin.co.jp/50401.html

●写真は2003年発行の「新装版」
http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/dicts/edo_tokyo_sinso.html