エッセイ再録 「ハリヨの夏」  2007 Apr 27 (Fri)  

■再録シリーズ、今回は「小説推理」(双葉社)07年1月号の
「私のとっておきシネマ」欄に寄稿したエッセイを掲載します。



  「ハリヨの夏」

                            盛田隆二


『ハリヨの夏』は新進監督・中村真夕さんの劇場用映画デビ

ュー作であり、今年の十月にシネマート六本木ほかにてロー

ドショー公開され、第十一回釜山国際映画祭にも出品された

話題作だ。ぼくはこの映画を銀座の試写室で観たが、上映が

終了してエンドマークが出ても、しばらく席を立てなかった。

この初々しい佳品に自分がなぜこれほど惹かれたのか、その

理由を考えていたからだ。

 女子高校生の妊娠と出産という出来事を通して、思春期の

心と身体の成長をみずみずしく描き出したこの映画、脚本が

じつに丁寧に作り込まれているし、自然光の中で長回しを多

用したカメラワークも新鮮で、そしてなによりもオーディショ

ンで選ばれた新人、於保佐代子と高良健吾(撮影当時、二人

とも実際に高校生だったという)の自然体の演技には目を見

張ったが、ぼくが興味をもったのはまた別のところにあった。

 試写室の外に監督の中村さんがいらっしゃった。初対面の

ぼくは自己紹介をしてから、「なぜ時代背景を一九九〇年に

設定したんですか」と彼女にたずねた。

「まだ携帯電話のない時代にしたかったんです」と中村さん

はすぐに答えた。

 やっぱり、とぼくはうなずいた。拙著 『夜の果てまで』 も同

様に一九九〇年の一年間を描いている。小説中にポケベル

や留守電は出てくるが、それ以外の通信手段はまだない。

携帯電話のある現代を舞台にしたら、恋愛小説としての成立

はとても困難だったろうし、まったく別の物語になったにちが

いない。

「よくわかります。人と人のつながり方、関係性のあり方が、

携帯の出現によって劇的に変化してしまったわけですから。

でも、そのこと以上に、あなたの世代にとって、やはり一九

九〇年は特別な意味を持ちますよね」

 世代、という言葉を強調してふたたび訊くと、彼女は照れ

ながらも大きくうなずいた。

「そうです、はい。いわゆる団塊ジュニアとして、ですね」

 世代論はときに不毛だが、この映画に関してはとても重要な

意味を持つように思われる。主人公は十七歳の高校三年生。

両親は学生運動を通じて知り合った団塊の世代という設定だ

が、中村さん自身、一九七三年生まれなので、主人公とぴっ

たり年齢が重なる。

 京都の居酒屋(かつて中川五郎のフォークリポートわいせ

つ裁判の支援拠点にもなった伝説の喫茶店「ほんやら洞」が

映画の舞台になっている)で働く陽気で奔放な母親(風吹ジュ

ン)に、少女は同じ女として反抗心をむき出しにしながらも、

一方で、別居中の父親(柄本明)とは鴨川べりで落ち合い、

おしゃべりを楽しむ穏やかな関係を結んでいる。

 ある日、少女は父親からハリヨをもらう。オスが卵を育てる

珍しい淡水魚だ。若い恋人を作って家を出てしまった父親が、

なにを考えてそんな魚を娘に――と観客は誰しも思うだろう

が、少女にとっては、そんな身勝手な父親の存在そのものが、

唯一の心の安息所になっている。その父親と娘の距離の描き

方がとにかく絶妙で、息苦しいほど切ない。

 一九七二年、連合赤軍のあさま山荘事件を境に、学生運動

は急速に求心力を失っていくが、翌七十三年、まるでその挫

折の申し子のようにこの世に生を受けた少女は、十七歳の夏、

壮絶な決意をもって子を孕み、新しい命を育てていく。団塊

の世代の親と子の〈世代の乗り越え〉を描いたとも言えるこの

映画は、やはり一九九〇年を舞台に設定する以外に選択肢は

なかったのだろう。

「わたしはおまえをそっと手にうけて、なんと囁いていいのか、

もうわからない……」

 少女は父親が大学時代に書いた詩集ノートをくりかえし読む

が、その詩はじつは中村さんの父親で、現代詩人の正津勉の

作品「おやすみスプーン」の一節である。現実と虚構の狭間

で、若い女性監督が父親への思いをそっと謳い上げている。

心に残る場面だ。