書評再録・佐藤正午著『5』  2007 May 13 (Sun)  


■再録シリーズ、今回は「週刊現代」07年2.24号に寄稿
 した、佐藤正午著『5』(角川書店)の書評を掲載します。



 突如蘇った「新婚時代」の熱情に翻弄される夫婦を軸にして
 錯綜する「愛の姿」を問いかける
                             盛田隆二


 この魅力的な長編小説を紹介する前に、少しだけ私事を

書かせていただくが、最近(厳密に言うと五十歳を境にして)、

記憶力の減退を自覚するようになった。


 初恋の女性の名前さえ思い出せない、というわけではない。

それどころか、初めてのデートから、最後になったデートの

ことまで、ほとんどすべて憶えているのだが、身も世もなく

恋い焦がれ、それこそガラス細工を扱うように接しながらも、

なぜかときに相手を傷つけるような傲慢な振る舞いをした

当時の自分の心の動きを思い出せないのだ。


 もう三十五年も前のことだ。当然だろう、と思われる方も

いるだろうが、思春期の少年の心情を思い出せなくなってし

まった小説家は、もう二度と思春期の愛の物語を書けない。

これはとても切ないことだ。


 いや、こんなことを書いたのは他でもない。五百頁にも及ぶ

この大作が 〈失われた愛の記憶の蘇生〉 をモチーフにして

いるからだ。


 結婚八年目の記念に中志郎と真智子はバリ島を訪れる。

早々と倦怠期を迎え、七年もセックスレス状態が続いている

夫妻にチケットを贈ったのは真智子の姉だ。志郎にとっては

迷惑至極な話だが、旅行を機に子作りに励んでほしいとの

願いが込められている。


 ところが、旅行中に起きた ある出来事をきっかけに (など

と謎めかして紹介しても分かりにくいので多少のネタバレは

許されたい)、故障して緊急停止したエレベーターの暗闇の

なかで、志郎は並外れた記憶力を持つ女性から、ある超能力

を伝授される。重ね合わせたてのひらを通して、志郎のなか

で埋もれていた新婚時代の愛の記憶がまざまざと蘇るのだ。


 志郎はすぐさまホテルの部屋に妻を連れ帰り、愛おしさに

突き動かされて妻を抱く。妻は驚き、おののくが、夫の劇的

な変化を喜んで受け入れる。

 いや、それにしても荒唐無稽な話にはちがいない。

 超能力? 七年間もセックスレスだった夫婦が再び出会っ

たころの情熱を取り戻して、狂おしくセックスする。それが

実際にできてしまう力を超能力と呼ぶ?

 そんなことは超能力とは言わないだろう? と鼻で笑う男

より、身につまされる男のほうが断然多い、と推測する(告

白すればぼくも後者のひとりだ)。


 第一章の終わり近くに、この夫婦の物語を書きつづってい

る作家、津田伸一が登場する。つまり作家は夫妻から聞いた

バリ島でのエピソードを本書で再現している。物語はそんな

多重構造を持つ。


 中夫妻の物語と、津田の物語、さらに並外れた記憶力を持

つ女性の物語が行きつ戻りつ語られる。たびたび本筋を離れ、

迂回しながらもバリ島で起きた奇跡の核心に近づいていく。

そのミステリアスな筆の運びに心躍らされて、頁をめくる手は

止まらない。


 津田は(佐藤正午の読者ならお馴染みの)ダメ男で、二回

離婚し、いまは独身だ。

「必ず冷めるもののことをスープと呼び愛と呼ぶ」 とうそぶ

き、出会い系サイトで知り合った女と次々と寝る。そんな男

だが、読者(とりわけ超能力の件に身につまされた読者)は

読了後、愛は必ず冷めると断言する津田と、永遠の愛の記憶

に翻弄される志郎との間で、揺れ動いている自分自身に気づ

き、再度身につまされることになる。これはそういう小説だ。


 ぼくは読み終えてそっと本を閉じながら、三十五年前の愛

の記憶を思い出せない自分に、安堵のため息をついた。