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エッセイ再録・「幼児のように泣く父」 2007 Jul 10 (Tue) |
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■メモの更新が滞っています。自分自身、それほど飽きっぽい 性格ではないと思うんですが、一度滞りだすと、身辺雑記で さえ気軽に書けなくなりますね。 そんなわけで、今回も再録シリーズです。 07年4月22日付 「日本経済新聞」 朝刊の 「日曜随想」欄に 寄稿したエッセイ 「幼児のように泣く父」 を掲載。
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幼児のように泣く父
盛田隆二
五年前、母がある難病で亡くなった。その日を境に、高齢の
父は生きる意欲を失ってしまったのか、一日中ソファに座った
まま、外出も滅多にしなくなり、足腰が急速に衰えた。独身の
妹が父の世話をしているが、妹には持病があり、体調は万全で
はない。
ぼくの自宅と実家は同じ川越市内にあり、車で十分ほどの距
離だ。 実家を二世帯住宅に改築していっしょに暮らすことも考
えたが、 折しも市の道路拡幅事業が本格化し、実家の敷地の
約半分を道路用地として市に売却しなければならなくなり、 二
世帯住宅のプランも消滅した。そんな状況下の日々の記録。
■某月四日(火)
夕方、父から電話。郵便局へ行く途中、路上で転倒して額か
ら大量に出血し、救急車でT病院へ運ばれた。幸い軽傷です
み、手当てを受けて帰ってきたところだという。
「ごめん、いま忙しくて行けないんだ」 と詫びると、 「大丈夫、
もう帰ってきたから」 と父。連載小説の締め切りが金曜に迫っ
ているのに、まだ半分も書けていない。
■某月六日(木)
午前十一時、父から電話。 「隆二、お腹減ったよ。昨夜から
何も食べてないんだよ」。 仕事を中断して駆けつける。妹は体
調不良で布団に入ったまま。コンビニで弁当を買って食べさせ、
それから配食サービスの業者に電話を入れ、昼と夕、二食の弁
当の宅配を依頼。
■某月七日(金)
T病院の看護師から電話。薬の飲み方が分からないと父が
訴えて、三回も病院に来たという。父は軽度の脳梗塞を患った
ことがあり、その薬をずっと服用している。薬が変わったんです
か、と訊くと同じものだという。 父に電話を入れて確認する。
薬の袋が変わったので混乱したらしい。 連載、脱稿できず。
月曜の朝一まで待ってもらう。
■某月八日(土)
青山の創作学校で小説の書き方を講義。トンボ帰りして執筆
を続ける。
■某月九日(日)
妹の体調が悪い、と父から電話。実家に様子を見に行く。妹
は布団に入ったまま、声をかけても返事がない。明日いっしょ
に病院へ行こうと一時間ほどかけて妹を説得。
■某月十日(月)
連載原稿、午前五時半にやっと脱稿し、送信。
朝八時、実家に妹を迎えに行き、車で病院へ。 診察の結果、
即入院が決まる。一旦実家に帰り、妹の着替えや洗面道具など
を持って再び病院へ。入院手続きを終え、実家へ戻る。亡母も
お世話になったケアマネージャーのMさんに妹が入院したこと
を連絡し、父の現在の状態を説明する。当面、父は一日一回程
度の訪問介護サービスを受けることで対処できそう。
■某月十二日(水)
妻、勤務を休み、二人で実家へ。父は昼の弁当を食べ終えた
ところ。洗濯と掃除をすませ、ぼくと妻も昼食。
「私のご飯は?」と父。さっき食べたばかりなのに? ここまで
惚けが進んでいたのかと、ゾッとする。
午後三時、川越駅前で某誌の編集者と打合せ。父と妹のこと
で頭が一杯で、新しい小説のプロットを練るような精神的な余
裕がまったくない、と事情を説明し、来月から開始予定だった
連載小説の中止をお願いする。
■某月十三日(木)
午後二時、実家にケアマネージャーのMさん。久しぶりに父
と会い、その耄碌ぶりにショックを受けた様子。いまの父には
国家公務員として三十八年間勤め上げた面影は微塵もない。
訪問介護で一人暮らしも可能と思っていたが、そんな段階は
過ぎている。薬の管理もできず、煙草の火も不安。介護老健施
設への入所を勧めます、とMさん。
日経新聞から書評を依頼された新刊を読む。
■某月十四日(金)
父とI病院へ。介護老健施設に入所するための健診。 入所し
たくないと言い張る父を主治医に説得してもらう。父を実家に連
れ帰り、次に川越の郊外にある老健施設へ。入所契約書の締
結に際し説明を受ける。「月曜の三時に父を連れてくればいい
んですね」「三時から入所審査の会議があるので、入所は火曜
以降になります」 「すみませんが、月曜しか動けないんです」
と押し切り、再び実家へ。父の着替えや下着を整理し、自宅に
戻る途中、父の入所用のジャージの上下を二着購入。
■某月十五日(土)
銀座の畜産会館で講演会。終了後、妻と実家に行き、着替え
や下着から歯ブラシ、ひげ剃りにいたるまで、すべての持ち物
にマジックで父の名を書く。認知症の進んだ入所者が多く、盗
った、盗られたと、頻繁に揉めるらしい。夜、書評を書き始める
が、脱稿できず。
■某月十六日(日)
弁当と新聞の宅配を止め、実家のご近所に当分空き家になる
旨、挨拶回り。深夜、書評を脱稿。
■某月十七日(月)
I病院で父の薬を四週間分受け取り、父を連れて老健施設へ。
入所審査の会議が終わるまでロビーで待ち、午後四時に入所。
五時半から夕食。職員に挨拶をして帰ろうとすると、父は大粒
の涙を流し、声を上げて泣く。
■某月二十二日(土)
若き日の父と母が写ったアルバムを持参し、老健施設へ。入
所者の多くが食堂でテレビを見ているが、父は個室に閉じこも
ったまま、じっと壁を見ていた。 リネン室の洗濯機で父の下着
を洗濯し、 それから父を連れて近くのコインランドリーに行き、
乾燥機にかける。
どんな話をしても十分前に言ったことを忘れているので、会
話にならない。そうして三時間ほど父とすごし、来週また来る
から、と言うと、 父は幼児のように顔をくしゃくしゃにして泣き
だす。
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