エッセイ再録 「男と女が出会うのも――」   2007 Aug 04 (Sat)  


■遅ればせながら「顔ちぇき」をやってみました。
 西田敏行 61%
 赤井英和 57%
 寺脇康文 49%
 ……うーん!? この三人を足して三で割ると、僕に?^_^;

■「市民のみなさん方へ」で始まる声明文をいつも固唾を呑んで
 拝読していた小田実氏の急逝など、この一週間も様々なことが
 ありましたが、それらについて感想を書き付ける余裕がないの
 で、今回もエッセイを再録します。
 掲載するのは『本の時間』(毎日新聞社)06年7月号の「偶然
 のエッセイ」欄に寄稿した「男と女が出会うのも――」。

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   偶然のエッセイ
  「男と女が出会うのも――」

                            盛田隆二


 さる二〇〇六年四月十八日、東北地方から九州にかけて全国

各地で、中国大陸の砂が上空の偏西風に乗って日本に運ばれる

黄砂が観測された。

 気象庁によると東京都心では六年ぶり、千葉市では十八年ぶり

だという。

 非常に珍しい現象なのでテレビでも繰り返し報じられたが、私

はそのニュース映像を見て、しばらく声も出なかった。

 というのも、二〇〇四年に刊行した長篇小説『散る。アウト』の

冒頭が次の一文で始まっているからだ。

            *

 二〇〇六年四月十八日の夕刻、低気圧の影響で生じた上昇気

流により、中国とモンゴルの国境地帯のゴビ砂漠で、三十年来の

激しい砂塵嵐が発生した。

 巻きあげられた黄砂は北京の上空をおおい、二十日には黄海

を渡って朝鮮半島に達し、 さらに強い偏西風に乗って日本海を

東に進み、二十一日の正午すぎに日比谷公園のベンチでうたた

寝をしていた木崎耕平の髪を砂まみれにした。

            *

 中国の土地開発や森林伐採、モンゴルの過度の放牧により、

大陸の砂漠化が急速に進んでおり、黄砂はその影響によるもの

と指摘されている。おとなりの韓国では年々被害が拡大し、数年

前から大きな社会問題となっている。

 だから、まあ、 遅かれ早かれ、 日本にも波及することはだれ

でもたやすく想像できるので、二年前に刊行した〈近未来小説〉

が今回、予言のような役割を果たしたとはいえ、 このようなエッ

セイでそれを喧伝するのはいささか気恥ずかしいが、私は〈偶然〉

を糧にして物語をつむいでいる小説家なので、この種のことには

やはり敏感に反応してしまう。


 小説とは〈偶然〉の集積体である、 と私は思っている。 ある

男と女が出会うのも、ふたりが恋に落ちるのも、別れ話のもつ

れから相手を殺してしまうのも、 すべて〈偶然〉の積み重ねで

しかない。

 ヘボい小説は 「おいおい、こんな偶然、あるかよ」 と読者を

シラケさせてしまうが、すぐれた小説は、それらの相次ぐ偶然

の連鎖が〈一回り大きな必然〉の帰結であり、 〈避けがたい運

命〉であったかのような読後感を残す。極論を言えば、両者の

違いはそれだけしかない、と思っている。


 別の観点から言えば、登場人物はけっしてプロット通りに動

いてくれない。

「登場人物が勝手に動きだす」とは、小説家が好んで使う言葉

だが、作者の思惑を裏切って、とんでもない行動に出る主人公

は、じつに魅力的だ。

 綿密に練り上げたプロットが役に立たなくなり、 想定してい

たエンディングがどんどん遠ざかっていく。まるで夕暮れどき

に迷子になった子どものような心細さをおぼえながらも〈一回

り大きな必然〉といつか出会えることを信じて、主人公の身勝

手な行動と、その結果として立ち現れる〈偶然〉の連鎖に身を

ゆだねて書き続ける。とてもしんどい行為だが、それが小説を

書くことの意味だと、私は信じている。


 ただ、これはあくまでも、 小説において〈偶然〉が果たす役

割の話であり、実人生における〈偶然〉は、まったく別の様相

を呈する。

 私の母は十四歳にして単身上京し、看護婦養成所に入学した。

それ以来、半世紀以上にわたって医療現場で働き続け、七十歳

近くになってもなお、 在宅介護支援に精力的に取り組んだが、

師長として東奔西走の末に、念願の訪問看護ステーションを設

立した直後、 パーキンソン病を患っていることが判明したのだ

った。

 入院後、病状は急速に進行し、喉に穴を開けて、生命維持装

置の気管カニューレを装着しなければならなくなったとき、母は

私の手を握りしめて大粒の涙を流しながら、 「隆二。かあさん、

まだ死にたくないよ。もっと生きたいよ」と訴え、 その三週間後、

息を引き取った。 二〇〇二年一月二十二日。 享年七十一歳だ

った。


「おばあちゃんに呼ばれたんだね」

 通夜の席で母の妹が何度も繰り返した。

「もうそんなに苦しむ必要はないから、早くこっちにおいでって、

おばあちゃんに呼ばれたんだね」

 祖母も同じパーキンソン病で亡くなったのだった。 そのこと

は知っていたが、祖母の命日もまた一月二十二日であり、しか

も享年七十一歳だったことを、私はそのとき初めて知った。

 偶然がそれだけ重なると、やはりそれは〈避けがたい運命〉と

しか思えなくなる。

 これが小説なら、 祈りを込めた〈偶然〉の連鎖の力で、母を

奇跡的に生還させることもできる。 いや、少なくとも息を引き

取るまでの三週間に、命の最後の輝きを灯すことができる。


 たとえば、 冒頭部分を引用した 『散る。アウト』 の主人公・

木崎耕平は、堅気の勤め人だったが、ささいなことから莫大な

借金を負い、ホームレスに転落した。そのとき彼はまだ転落の

人生に出口があることを知らず、死ぬことばかり考えているが、

黄砂の飛来した日の夜、ある男から、外国人女性との偽装結

婚の話を持ちかけられたことで、 それ以降〈偶然〉の連鎖の果

てに、否応なく生かされて続けてしまう。


 だが、 私の母がたぐり寄せた〈偶然〉は冷酷で、容赦ない。

〈神〉が綿密に練り上げたプロットは壊しようがなく、母がどれ

だけ頑張っても、 作者の思惑を裏切ることは永遠にできない

のだった。