■再録■『おじゃまさんリュリュ』巻末エッセイ  2008 Feb 16 (Sat)  


◎大矢ちき著 『おじゃまさんリュリュ』 (小学館文庫)に
 寄稿した 「巻末エッセイ」 を、全文再録します。

 2007.2.15の刊行から、早1年。
 ちきさんファンで買いそびれていた方、ぜひどうぞ。

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●エッセイ ちきさんと一生懸命に遊んだ日々


                            盛田隆二

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 ちきさんと初めて出会ったのは一九七八年――。もう三十年

も前のことだ。

 当時「ぴあ」の新入社員だったぼくは編集長からちきさんを

紹介され、 「読者とのコミュニケーションページを作るように」

と命じられた。なんですか、それは? まあ、つまり、映画や

音楽の情報をびっしり詰め込んだ誌面の中で、ホッとできる

息抜きのページ≠ニ考えればいいんだろう。そうは思ったが、

具体的な企画がまったく浮かばない。


「ちきさん、どんなページ、作りたいですか?」

 恐る恐る訊くと、ちきさんは長い睫毛を物憂げにしばたたき

(小嘘)、小首をかしげた。

「うーん、とにかく面白いページにしようね、一点突破の全面

展開みたいなヤツ。でも、面倒臭いのは嫌よお。あはは〜」


 ページのタイトルを 「ぴあパノラマ館」 と決めると、編集長

はさっと席を立ち、 「じゃ、盛田、あとはよろしくな」と言って、

会議室を出て行った。しばしの沈黙――。


「ねえ、盛田さん、ピュンピュンしに行かない?」

「え、ピュンピュン、ですか?」

 ぼくは面食らったが、深謀遠慮とまでは言わないまでも、ピュ

ンピュンにはきっとなにかヒントがあるのだろうと思い、 さっそく

会社を出た。


 なにぶん新入社員の身なので、就業時間中にゲームセンターに

行く勇気はない。でも、喫茶店なら打ち合わせと称して堂々と入れ

る。 一九七八年、 その年はトラボルタの 「サタデー・ナイト・フィ

ーバー」と、スペースインベーダーが日本中を席巻し、喫茶店の

テーブルはその大半がゲーム機を兼ねていた。


 カラ撃ちによるUFO三百得点、レインボー、名古屋撃ち……。

ちきさんは裏ワザを駆使し、五面目、六面目とクリアして行く。新宿

のゲーセンでは二十万点出たらしい。いや、池袋では三十四万点

出たって。そんな話をしながら、ぼくは企画発想のウォーミング

アップのつもりでゲームに付き合っていたが、たちまち三時間ほ

どが過ぎ、店を出るときにはすでに日もとっぷり暮れていた。


「こんなページ、作りたいね」

 ちきさんがゾクッとするようなハスキーな声で言った。

 えっ? ぼくは焦った。企画の話などまったくしていない。

「あの、スペースインベーダーを誌上で展開するんですか?」

「ううん、じゃなくて。暇つぶしのつもりで始めたのに、あっという

間に三時間ぐらい経っちゃうような、バカバカしくて変なページ」

「それはつまり、すごく難しいパズルとか?」

「うん。でも、一目見て、パズルのページでございます、って感じ

はつまらない。あくまでも壮大な暇つぶしのページ」


 そんな会話から 「ぴあパノラマ館」 はスタートしたのだが、いま

皆さんにその誌面をお見せできないのがとても残念だ。たとえば

「八ミリ怯む!一筆絵尻取」と題したパズルを例にとって説明して

みよう。「ぴあ」本誌の見開きに、八ミリの正方形のマスが隙間なく

千二百個並び、そのすべてのマスにちきさんの絵が描き込まれて

いる。そんな壮観なページを想像していただきたい。一見してパズ

ルには思えない。幼稚園児が喜びそうな小さなシールが千二百

枚、びっしりと並んでいるように見える。


 やり方はきわめて単純。柿→菊→鯨というふうに絵の尻取りを

続けていき、このマスを塗りつぶしていくと、最後にワッと大きな絵

が浮かび上がる。そんなバカバカしくも他愛ない企画だったにも

かかわらず、読者の反応はすさまじかった。当時「ぴあ」は十万部

の発行だったが、なんと一万通を超える応募が来たのだ。


 プレゼント賞品はたった一枚のステッカー。それが欲しくて一万

人を超える読者がハガキを投函したとは思えない。このパズルは

どんなに早くても解くのに四時間かかる。中には六、七時間かかる

人もいる。これを解くまでに自分がどれだけ苦労したか、綿々と書

き綴ったハガキも多く、とにかく答えにたどり着いたことを報告し

たくて、それだけ多くの方が応募してくれたのではないかと思う。


 あくまでも誌上のアナログ企画だが、パノラマ館の快感にハマっ

た読者は、後のテレビゲームオタクに通じる気がする。


 それにしてもちきさんは、ぼくの作る尻取りを、どんなものでも

ちゃんと絵にしてくれた。スズムシとコオロギの描き分けなど朝飯

前で、さすがにシャケと塩ジャケは「いくらなんでも無理だって!」

と却下されてしまったが、チャバネゴキブリとヤマトゴキブリの違

いだって、八ミリマスの中できっちり描き分けてくれた。


「ったく、なんでこんなことをやらせるのよ。面倒臭いのは嫌だって

て言ったじゃない」

 ちきさんは頬っぺたをふくらませながらも、不眠不休でコンマ

一ミリのロットリングを走らせたのだった。


 ……いや、 「ぴあ」 の昔話ばかりで、いつになったら 『おじゃま

さんリュリュ』について触れるんだ? と読者の皆さんのお叱りを

受けるかもしれないが、正直に告白すると、当時ぼくは担当編集

者のくせに(いまから考えると本当に失礼千万なヤツだと思うが)、

ちきさんのマンガ作品をほとんど読んでいなかった。


 ちきさんが「りぼん」で活躍したのは一九七二年から七五年の

わずか三年間のことで、七六年から執筆の舞台を「リリカ」に移し

ていたが、七八年に 「ぴあパノラマ館」 がスタートすると同時に

(七九年と八〇年に「プチコミック」で大島弓子、青池保子、樹村

みのりらとの合作作品を二度発表したが)、少女マンガの世界から

ふっつりと姿を消したような形になった。ちきさんがマンガを描か

なくなったのは「ぴあ」のせいだと恨んでいるファンも多いという。


当時、そんな話を聞いてひどく気になったが、 「いいの、いいの、

あれはもう終わったこと」 とちきさん自身、少女マンガの話題を

ビミョーに避けていたので、ぼくもそれ以上、その話に立ち入る

ことはしなかった。


 七〇年代の少女マンガ読者は、大矢ちきの完成された抜群の

絵のテクニックと、 コマの隅にイタズラ書きをする遊び心、そして

ヨーロッパを舞台にした独特の世界観に魅了され、大いに酔いし

れたが、 久しぶりに 『おじゃまさんリュリュ』 を再読してみると、

ちきさんの中では、少女マンガもパノラマ館もそれ以降のイラスト

もすべてが一直線につながっていることが、いまさらながら分かる。


「そもまず、マンガというジャンルがある。一生懸命やる人もいる

しテキトオにやる人もいる。普通の人がテキトオにやれば、それは

かなりいい加減な作品になる。ところが、十分に技術を持った人が

テキトオであることを分かってキチンとやってしまえば、すぐれた

作品になる。なぜかといえば、その一生懸命≠ニテキトオ

その間にあるすき間を埋めるものが自由≠セから」

(橋本治「世界を変えたペン先―大矢ちきの位置」より引用。『ぱふ』

一九八〇年十一月号掲載)


 橋本治氏による、この卓越した大矢ちき論が本質をずばりと言い

当てているので、 ぼくがこれ以上書くことはないが、 ちきさんが

少女マンガで好んで描いたコスモスやかすみ草の花が、パノラマ

館ではゴキブリや焼きイモに変わっただけのことで、ちきさんの世

界観や遊び心はなんの矛盾もなく終始一貫している。


「もう遊び疲れちゃった。そろそろやめていいかな?」

 通算百回目のパノラマ館を描き終えたとき、ちきさんがぽつりと

言った。

 ああ、 そうか。 少女マンガから撤退したときも、 きっとこんな

感じだったんだな。口には出さなかったが、ぼくはそう思った。

とにかく人気のページだったので、その後もしばらく連載を続けて

いただいたが、一九八三年の第百二十回でついに終了し、『パズル

幕の内弁当/ぴあパノラマ館総集編』として刊行された。


 家庭用テレビゲーム機 「ファミコン」 が発売された八三年に、

アナログの「パノラマ館」が閉館したのも、いまから思うと偶然とは

思えない。ちきさんには時代の変わり目を敏感に察知する嗅覚が

ある。遊び心を失わないために、 また別の自由を探したくなった

のだ。


○写真は、パノラマ館の読者プレゼント。
 パノラマ館謹製 「ごきぶりホイホイ」 の外袋 (笑)