エッセイ再録 『散る。アウト』取材旅行日記  2009 Jun 17 (Wed)  


■今回は 『多文化と自文化―国際コミュニケーションの時代』
 (森話社/ 2005.9.22刊) に寄稿したエッセイ
 「マンホール・チルドレンに励まされて―近代化するモンゴル
 と日本」 の冒頭部分と、取材日記を抜粋して、再録します。

 http://www.shinwasha.com/55-0.html

 『散る。アウト』は、2ヶ月前に文庫が刊行されたばかりです
 が、モンゴルの取材旅行からはもう7年の歳月が流れました。

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  『散る。アウト』 取材旅行日記
  ―マンホール・チルドレンに励まされて―

                            盛田隆二


 「アジアを舞台にしたノワール(暗黒小説)を書きませんか?」

 毎日新聞社から執筆依頼を受けて、二〇〇二年六月、モンゴル

 に取材に行った。

 「えっ、遊牧民の小説ですか?」

 担当編集者はちょっと面食らったようだったが、 私にしても、か

 の蒼穹の国≠アそ二十一世紀初頭のアジア・ノワールの舞台

 としてふさわしいと、最初から確信していたわけではない。


 信頼できる知人が脱サラして 「地球の笑顔と出会う会」 を設立

 し、 モンゴルのストリート・チルドレンの自立事業のために、 日

 本の放置自転車を送る運動を始めたことをたまさか知り、 その

 チャリティツアーに参加することにしたのだった。


 路上生活を余儀なくされている子どもたちは、ユニセフの推定

 によれば世界中で三千万人を超えているが、一九九〇年以前

 のモンゴルには、 たった一人のストリート・チルドレンも存在し

 なかったという。


 一九九〇年。 まさにその年に 『ストリート・チルドレン』 という

 長編小説でデビューした私にとって、それは他人事ではない。

 なぜ一九九〇年が分水嶺なのか。


 答えはソビエト連邦の崩壊だ。 そのあおりを受けてモンゴル社

 会は大混乱を来たしたのだが、正直に告白すれば、取材に行く

 前の私はこの国についてほとんどなにも知らなかった。


 映画や小説で描かれるところの、 テント式の住居で移動する

 昔ながらの遊牧民の暮らししかイメージできず、都市部に住ん

 でいる人たちはどんな仕事をしているのか、 いや、そもそもど

 んな社会体制なのかさえ、恥ずかしながら知らなかった。


 参加したチャリティツアーでは、 保護施設に収容された元スト

 リート・チルドレンたちとともに草原を旅しながら、じつに様々な

 ことを考えさせられた。

 (中略)

 まずは、そのツアー記録。


■二〇〇二年六月一五日(土)

 モンゴル航空機にて成田空港を出発。参加者は私を含めて一三

 名。寄贈するための車椅子一一台の搬入に多少手間取ったが、

 重量の超過料金はモンゴル航空の協力で無料になった。


 放置自転車については、 板橋区の協力によりウランバートルに

 発送した二〇〇台のうち二〇台が孤児たちの自立事業に生かさ

 れることになっている。


 二〇〇二年は日本とモンゴルの国交樹立三〇周年である。これ

 を記念して四月よりウランバートル直行便が就航したので、わず

 か五時間ほどで草原の真ん中へ到着。


 通訳のダワーさん、 ゾリグ基金から車椅子を受け取りに来た担

 当者らの出迎えを受ける。ホテルの浴室のお湯が一滴も出ない。

 理由は火力発電所の燃料不足。よくあることだという。


■六月一六日(日)

 午前中、ガンダン寺、スフバートル広場、ボグドハーン宮殿博

 物館などを見学。


 午後はウランバートル市内の「シンバ子どもの家」を訪問。

 園長以下四人のスタッフで、三〜八歳の孤児を含む周辺の家

 庭の子どもたち一六人を預かっている。


 園内でニワトリを飼ったり、ビニールハウスで野菜栽培に挑戦

 したりと、援助金だけに頼ることなく、施設としての自立を目指

 している。


 続いて、同市内の 「ティムーレル」(希望の家)を訪問。ここは

 モンゴルの代表的な歌手オユンナさんが代表を務めている

 ストリート・チルドレンの保護施設。


 開設した一九九七年当初は海外からの資金援助もあり、六〇人

 以上の子どもの面倒を見ていたが、 その後、援助が打ち切られ

 て縮小せざるを得なくなっている。


 現在は八歳から一八歳の子ども二一人が収容され、 掃除、洗

 濯、料理を自分たちで分担しながら、学校へ通っている。


 施設の説明を受けたあと、 子どもたちによる歌や踊りで歓待を

 受ける。 「大きな栗の木の下で」 など日本語の歌が上手で驚く

 が、それは当地で日本語教師をしている谷順一氏の指導による

 ものだった。氏のようなボランティアの熱意が施設を支えている。


 東京都自転車商組合から支援されたオリジナルの石鹸や自転車

 の修理用品などを贈呈。


【注】 「シンバ子どもの家」 については、 園長の熱意と運営趣旨

 に賛同し、今後の継続的な支援を約束したが、この訪問のあと、

 同施設の運営をめぐって使途不明金問題などが発生したため、

 同会はやむなく支援体制を解除した。


■六月一七日(月)

 市内の 「日本語図書館」 を訪問し、日本の書籍を(私の拙著も

 含めて) 約四〇冊寄贈。 『地球の歩き方/モンゴル編』などが

 喜ばれた。

 日本語を学ぶ学生が多いので、日本語検定問題集などの需要

 が多いという。日本の小説家の訪問は初めてだと歓迎された。


 続いて、 「市立労働教育トレーニングセンター」 を訪問。スト

 リート・チルドレンを収容し、 女子には編み物やミシン、 男子

 には革加工による靴作り、木工などの職業訓練を施して、社

 会に出ていけるように教育する施設だ。


 旧ソ連の施設を利用した建物で設備は貧弱だが、音楽やダンス

 など、子どもたちの情操を豊かにする教育にも力を入れている。


 伊藤忠ハウジングの協力を得た女子制服五〇着を寄贈。また、

 ツアー参加者のひとりから 大量の革の端切れを寄贈。 これは

 子どもたちの靴二〇足分に相当する、 と大変喜んでいただく。

 子どもたちから女性のツアー参加者に、編み物の作品のプレゼ

 ントも。


 午後、同センターの所長と教師一名の同行で、郊外のキャンプ

 場を訪問(モンゴルの子どもたちは夏の期間、草原のキャンプ

 場で過ごす習慣がある)。


 サイクリングロードの整備、 観光客対応の自転車レンタル、 自

 転車や車椅子の修理の訓練など、 子どもの生活資金のための

 プランを提案、相談する。


■六月一八日(火)

 いよいよ大草原のチャリティ・ウォーキング。「ティムーレル」の

 子どもたち四人 (男子は一八歳のタミラーと 一五歳のオトゴ

 ン、女子は一七歳のミガーと一四歳のスガル)、園長のムギー

 さんに同行していただき、古都カラコルムまで、三泊四日の旅。


 二八〇キロ先のブルドのキャンプ場を目指して出発。雄大な草

 原に出ると、バスを降りてウォーキング。

 モンゴル語会話のハンドブックを見ながら、ときに通訳のダワー

 さんの力を借りて、子どもたちと会話を楽しむ。


 「日本人は魚が好きだけど、モンゴル人はなぜ食べない?」

 「魚は神様だから、老人は食べないの。若い人はフライにして食

 べるよ。でも魚料理は人気がない」

 そんな会話はできても、 路上生活のことはやはり本人に聞けな

 い。


 ミガーとスガルは姉妹だった。 園長さんにたずねると、 やはり

 彼女たちの生い立ちは想像を絶するほどで、 重い病気で路上

 に倒れていたところを保護されたのだという。


 親に捨てられずとも、 食料や仕事を求めて街路に出る子ども

 もたくさんいる。 レイプされ、児童ポルノの犠牲になる子どもも

 多いという。


 じつは日本を発つ前、私はその種の児童ポルノのサイトを取材

 していた。日本の小学生に扮した幼女が強姦される正視に耐え

 ない代物だったが、犠牲者はモンゴルの子どもだった。


 ブルドのキャンプ場に到着。近所のゲルを訪問して、遊牧民の

 方にお茶をご馳走になったり、草原で羊や馬や牛の乾燥した糞

 をぶつけ合って遊んだり、 子どもたちの案内で 草原の生活の

 一端に触れる。


 夕食はモンゴルの伝統料理ホルホックで子どもたちも大喜び。

 テント式住居のゲルはじつに快適。外は満天の星空。人工衛星

 もはっきりと見える。


■六月一九日(水)

 朝の出発前、子どもたちに旅の感想を聞く。

 「いままで郊外の草原に出たことがなかったのでとても楽しい」

 「一週間に一度しか使えない施設と違って、キャンプ場はいつで

 もシャワーが浴びられて嬉しい」

 「せっかく日本の人たちがモンゴル語で話してくれるのに、自分

 たちが日本語を話せなくてつらい」 など、いろいろな話が出る。


 一二〇キロ先のカラコルムを目指して出発。ナショナルチーム

 から借りた二台の自転車をみんなで交互に乗り回す。

 夕刻、カラコルム着。ゲルで食事。モンゴルの地元の人たちと

 歌と踊りで盛り上がる。


■六月二〇日(木)

 四〇〇メートル四方の城壁に囲まれたカラコルムの寺院エルデ

 ニ・ゾーは一〇八の仏塔が連なる様が壮大。

 スガルはこんな旧い寺院を見るのは初めてだと言う。

 タミラーは絵の勉強をしているので仏教画をモチーフにしたも

 のを描きたいと興味津々。


 大草原をウォーキングし、中継地のブルドのキャンプ地に到着。

 子どもたちと乗馬を楽しむ。


■六月二一日(金)

 昼すぎ、ウランバートルに到着。一旦子どもたちと別れ、ゾリグ

 基金へ。一人ひとりが車椅子の引き取りサインをする。これで

 ツアー参加者が手荷物で持ち込んだ車椅子を 空港から国内

 搬入することが可能になる。


 その後、自由行動。代表の三上氏はモンゴル国立科学技術大

 学のバダラッチ学長と接見。 駐日モンゴル大使館で紹介された

 留学生たちの要請による面会で、 ウランバートル市内で学生の

 ベンチャー起業を応援できないかとの話。 今後も情報交換をし

 ながら、学長、留学生と同会で話を進めてゆくことを確認。


 ティムーレルの子どもたちと園長さんを迎えて、最後の夕食会。

 楽しかった分、別れは切ない。子どもたちと写真を撮り合い、

 参加者全員涙ぐみながら再会を約束する。


■六月二二日(土)

 フライトが九時間半も遅れたおかげで、ザハ (市場) をじっくり

 探訪できた。日本からの支援物資の靴などが政府関係者から

 横流しされ、公然と値段をつけて売られている。

 夕刻、ウランバートル出発。深夜、成田空港着。


◎写真は、いっしょに草原を旅した子どもたち
 左から、ミガー、タミラー、スガル、オトゴン

 「生まれてから17年間に名前を呼ばれた回数より、
 この4日間にモリタさんに呼ばれた回数のほうが
 多かった。とてもうれしかった」

 と言ってくれたミガーも、いまはもう24歳。

 あの後、孤児の保護施設を出て、ホテルで雑務の仕事に
 就いたが、様々な事情があって職場を追われたという。

 現在は、ぎりぎりの状態で自活していると聞く。
 どうか三度の食事をきちんと取れていますように。